【誰の心の中にも居る「皆喜禅師」と「泣き婆さん」】

2020年6月12日 17時10分34秒 (Fri)

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その昔、中国に皆喜禅師(かいきぜんじ)というお坊さんがおられたそうです。

皆喜禅師は、天気の良い日には「今日は畑仕事ができる。ありがたいことだ!」と喜び、
雨に日には「今日は本が読める。ありがたいことだ!」と喜んでいました。

人が訪ねて来た時は、「世間のことがよく知れる。ありがたいことだ!」と喜び、
誰も訪ねて来ない日は、「今日は静かに座禅ができる。ありがたいことだ!」と喜んでいました。

暑い日には「暑いなら、暑いで結構。季節の味だから、結構なこと。」と喜び、
寒い日には「寒いなら、寒いで結構。季節の味だから、結構なこと。」と喜んでいました。


これに対して、京都の南禅寺には「泣き婆さん」のお話が伝わっています。

昔、南禅寺の門前に泣き婆さんと呼ばれるお婆さんが住んでいました。

泣き婆さんは、雨が降ったら降ったで泣き、天気が良ければ天気が良いで泣き、雨でも晴れでもいつでも泣いていたので、南禅寺の和尚が不審に思い、泣き婆さんに「一体、おまえさんはなぜいつもそう泣くのか?」とお尋ねになった。

すると泣き婆さんは、「私には二人の息子がおります。一人は三條で雪駄屋(せったや)をしております。もう一人は五條で傘屋をしています。

天気の良い日は、傘屋の方がさっぱり商売になりません。誠にかわいそうでなりません。
雨降りになりますと、雪駄屋の方は少しも品物がはけませんので、困っているだろう。

そう思いますと、泣くまいと思っても、泣かずにはいられません。」

そこで和尚は「なるほど、話を聴いてみれば一応はもっともな様であるが、そう考えるのは下手じゃ。わしがひとつ、一生涯うれしくありがたく暮らせる方法を教えよう」と仰有った。婆さんは「そんな結構な事がありますならば、是非ともひとつお聴かせください」と言った。

和尚は次のような話をした。

「世の中の禍福はあざなえる縄の如しというて、福と禍とは必ず相伴うものである。世の中は、幸福ばかり続くものではなし。かといって不幸せばかりが続くものでもない。お前は不幸せな方ばかりを考えて、幸せの方をいっこうに考えないから、そのようにいつも泣いていることになる。

天気の良い日は、今日は三條の雪駄屋は千客万来で繁盛すると思うが良い。
雨の降る日は、今日は五條の傘屋では傘が飛ぶように売れる

と思うが良い。
こう考えれば、「晴れれば晴れたでうれしいし、雨が降れば降ったでうれしいであろう。」

それ以降、泣き婆さんは楽しく暮らしたという。


誰でも泣き婆さんの話を聴いて、和尚さんの言う通り「天気の良い日は、今日は三條の雪駄屋は千客万来で繁盛する。雨の降る日は、今日は五條の傘屋では傘が飛ぶように売れる。」と考えればいいではないかと思うのであるが、しかし、自分のこととなると、和尚さんの話を聴く前の泣き婆さんみたいな考え方をしてしまうものである。

人が人として生きていく以上は、苦難にどうしても直面します。苦難が一切なくなるということはありません。

しかし、事実として苦難がありながらも、そのことで心が苦しまなくなる、その苦難の中に「ありがたい」と思える心が生まれるのが、皆喜禅師や南禅寺の和尚さんのお話です。

何か難事があると、「なにか私、悪いことした?」とか「私がこんな目に遭わなければならないような、一体、私が何をしたと言うのですか?」と訝ったりする人がいますが、それは難事、マイナス面に反応し過ぎるのです。

考え方ひとつでこうも違ってくるのである。どんな状況でも、考え方ひとつで楽しく幸せに暮らせるものである。
そう。誰の心の中にも皆喜禅師と泣き婆さんが居るのです。

楽しく力強く生き抜きたいならば、やっぱり皆喜禅師にお出まし願いたいところである。


[資料室5]瞑想の危険性など 
 

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